こんにちは、漫画部・部長のmatsuyamaです。
2025年夏の全国高校野球は、沖縄尚学高校が初優勝を飾りました。おめでとうございます。
野球は日本で最も広く知られ、愛されているスポーツの一つです。海の向こう、MLBでの大谷翔平選手の活躍も、日本の各種メディアを大きく賑わせています。
当然、野球をテーマにした漫画作品も数多く描かれています。
今回は、ある出来事で思い出した、野球にまつわる漫画を取り上げようと思います。
鍼灸がなぜ効くのか
少し前のことです。
とある会合で、父が事業でお世話になっている方とお話をする機会がありました。ここではいったんMさんとしましょう。Mさんは鍼灸の資格を持っておられる方で、うちの母にお灸をしてくれたと伺ったので、お礼を伝えました。そして私はMさんに、ちょうど気になっていた、こんな質問をしました。
「最近会社で話題になったんですが、鍼灸って、どういう作用で体の不調が良くなるんですか?」
するとMさんは、こんな風に答えてくれました。
「そうやね~。鍼灸がどうして不調に効くかと言うと、これはすごく乱暴な説明になるけどね、要はわざと体に傷を付けてるんやね。そして体がその傷を治そうとする。その治そうとする力によって、一緒に不調も治してもらおうとしてるんやね」
わざと傷を付けて、治す。
この話を聞いて、なるほどそういうことなのか、と思うと同時に、ある漫画のことを思い出しました。それが、「精神論2015」という短編漫画です。
ローカルワンダーランド
「精神論2015」は「ローカルワンダーランド/福島聡」という漫画の2巻に収録されています。短編漫画の連載を収録した、オムニバス的な内容です。
中でも同じ2巻に収録されている、高校生2人がアニメ制作を志すに至る「ストレート・アヘッド」という話は、この単話から話を広げて「バララッシュ」という連載漫画となり、全3巻が刊行されています。こちらも非常に面白い漫画です。
今回紹介する「精神論2015」は、プロ野球選手・黛(まゆずみ)と鍼灸師・門司(もんじ)のストーリーです。
※注意:ここから「精神論2015」のネタバレを含む内容となります※
精神論2015
抑えの投手(クローザー)である黛は、打ち取られて敗戦した日、門司から鍼灸院へ来るようメールを受け取ります。黛は次の日、気乗りがしないまま門司鍼灸院へと向かいます。
門司は派手な髪型・鋭い目つきに尖った歯・背中にヘビをあしらった黒長のコートを着ており(2巻表紙の一番下、左が黛で右が門司です)、謎の身振りで「ズバラシャアアァ」と叫んだりします。まあ、少なくとも鍼灸師には見えません。
針の施術を始めると、門司は、黛の足に針を打っていきます。しかし黛が痛めているのは左ヒジ。問題のある場所に針を打たない、針治療ってフシギですね、と黛は言います。
すると門司はカチリと針を置き、「鍼灸は基本……まやかしだよッ」と裏声で答えます。
黛 「…… スゴイ裏声ですね」
門司「痛い所ってのはその周りの筋肉が固くなってるから
そこをほくしてやれば痛さはなくなる
だが絶望的にも治るということはない……」門司「最終的に痛い所は自然治癒力で
以下、全ての引用は 精神論2015(ローカルワンダーランド)/福島聡より
どうにかするしかない……」
門司「夢も希望もない世界さ」
そして門司は「でも安心、プロは体がデキてる。問題は心のほうだ」……と言います。
それから、「人の心って何かわかる?」と黛に問います。
門司「人の心ってのはさ……」
門司「クーッ!」
黛 「…… くー?」
門司「色即是空の空…… つまり何もない」
門司「キャラッポウ」黛 「カラッポ?」
門司「ちなみにこの色即是空をさ こう英訳した奴がいるんだ……」
門司「キャンキシェイ!!」黛 「…… え?」
(中略)
門司「黛さん アンタと俺の『関係性』
これが心……大事なことなんだよ」黛「あー キャンキシェイ…… 関係性……」
アンタの今あるべき姿はなんだ?
黛の背中をマッサージしながら、さらに門司は問います。
門司「ねぇ黛さん
人の心って傷つけていいと思う?」黛 「……」
「いいと思う……」門司「もちろん悪いッ」
門司「人の心は傷つけてはいけない
ただし条件付きだ」門司「ありのままの自分じゃ嫌だって奴は
傷つけるに値する」門司「黛さん」
門司「変わりたい?
変わりたい?
アンタ変わりたい?」
黛は変わりたい、強くなりたいと答えるが、門司は嘘だと言います。
門司「アンタは嘘をついている
でしょ?
アンタは本当は世の中が変わってくれるのを待つタイプだ
でしょ?」黛 「いや変われるよ
俺自身が変われる」門司「ゴマかしてるね アンタ嘘つきだ」
黛 「……」
黛 「鍼灸はまやかしだって言ったのは門司さんだろ?」
そこで、門司はハタと左手を自分の口に当て、続けます。
門司「プロ野球と一緒だよ」
門司「見世物小屋で
投げて打って……虚業だよ」黛 「何を……」
そして次に、右手で自分の目を覆います。
門司「オイ筋肉バカ」
門司「そんな商売してて 人間らしくいられると思うなよ」黛 「は!?」
門司「黛礼二 30歳 ロートルピッチャー 33歳で引退
その後 解説者不採用 監督コーチ不採用」
門司「スポーツメーカーに無難に再就職
日常日常」
門司「過去の栄光
日常
緩慢な死……」
そこで、門司はガバッと黛の頭を掴みます。
黛 「なんだコレは?」
門司「オイ筋肉 この地獄の中で
アンタの今あるべき姿はなんだ?」門司「答えてみろ」
黛は門司の腕をガッと掴み、答えます。
黛 「俺はクローザーだ」
「目の前のバッターを倒すだけだ」門司「小せえなぁッ」
黛 「小さい?」
門司「小せえなぁッ まるでアンタのケツの穴だ」
黛 「投げる前から……
バッターをビビらせるような……」門司「全然ビビんねえ屁でもねえッ
ホラ この頭使ってもっと考えてみろよお前はリスか!?」
ここで黛は門司を殴りつけ、「もう限界だ俺は帰る、不愉快だ」と言って鍼灸院を飛び出します。
とある公園にて
……とある公園。
子供。老人。犬。
ベンチに座る、男性と女性。女性は赤ちゃんを抱いています。
そののどかな風景を、黛は向かいのベンチに座って眺めています。
親しげに話す男女。サァァっと風が吹き、赤ちゃんがあくびをして、伸びをします。
そのうち彼らがベンチを離れて歩き出すまで、黛はそれをずっと眺めています。
やがて、黛はとぼとぼと公園を歩き出します。
そして、目に一筋の涙を流しながら、こうつぶやきます。
黛「人間らしくいられると思うなよ……」
……
黛は、鍼灸院に戻って来ました。そして、門司に会うなりこう告げるのです。
黛 「門司さん 俺は鬼になるぞ」
黛の眼光には鋭さがあります。
門司は「それだ」と、謎の身振りと共に親指を立てます。
次の日
次の日、黛は抑えの投手として、試合に登板します。
マウンドに来たキャッチャーからは、「とにかくリラックスだ」と声をかけられます。
黛は一夜開けて、門司とのやり取りからは目が覚めたようでした。
黛(昨日はどうかしてた……)
黛(鬼ってなんだよ 昔話じゃあるまいし)
第一投を投げようとセットポジションを取った時、観客席が目に入ります。
そこにいたのは、門司でした。黒長のコートで、階段に立っている。「通路は立ち止まらないで」なんて注意をされている。
門司を見た黛は、様子が変わります。眼光鋭く、歯をギャリッと食いしばります。
そして、狂気をはらんだ目で投球し、打者を打ち取ってゆきます。
最後の一人を三振に抑えた瞬間、黛は「ズバラシャアア!」と叫びます。
観客席を見ると、沸き立つ観客の中、ズバラシャアアのポーズを取る門司が見えます。
いったん傷付けて、治す
この作品を読んで印象に残ったのは、まず一つに門司のキャラクターでした。特徴的な恰好で派手な言動を取り、歯に衣着せぬ言葉を黛にぶつける。それでいて黛のことを真剣に考えている様子は見て取れます。
そして何よりビックリしたのが、セリフの無いサイレントな公園のシーンです。黛と門司が言い争うシーンからのギャップがあるので、尚更その静かな情景が際立ちます。
私が鍼灸師のMさんとの会話でこの漫画を思い出したのは、「いったん傷を付けることで治す」というところです。
鍼灸の効果に関しては、門司は「最終的には自然治癒頼み」と言っており、自然治癒力で不調を良くするという点はMさんの話と同じです。
ただ門司の言う「固くなった筋肉をほぐし、痛みを取る(だけ)」というのと、Mさんのおっしゃっていた「わざと傷を付けて、自然治癒力を喚起する」は、やはり異なる効能だと思います。(ちなみに鍼灸の一般的な考え方が本来どのようなものなのかは、私には分かりません)
心(=関係性)をわざと傷つけ、強くする。この門司の主張とMさんの話には共通点があり、そして門司も鍼灸師だったために、「おや」と思ったのです。
心は空であり、関係性であるということ
門司の言う「心が空であること、心が関係性であること」について、私なりに腑に落ちるところがあるので、これを少し説明したいと思います。
私は、心というのは全て、認識に分解できると思っています。物を見たり、音を聞いたり、何かを考えたり、感じたり。感覚と言い換えても良いかも知れません。それらは「自分」が「他のもの」を見たり聞いたりしていることから、まるで「自分」という主体・受け手がいるような感覚になってしまうけれど、結局そこにあるのは様々な認識だけで、「自分」は無い。カラッポ、ということです。色々感じたり考えたりする自分がいるのではなく、色々感じたり考えたりという認識があるだけ、という解釈です。
そこで、関係性の話です。心がカラッポで認識しかないのであれば、認識があって初めて「空」であるところの心がある。そのため心というものは認識次第、他のもの次第になってくる。特に他人というのは人間にとって一番の関心事であるため、他人とどう関わるか・どう接するかは、人の心を大きく左右するでしょう。人だけでなく物事との関係性も心を形成するけれど、人との関係性が心を形成する大きな要素になりうる。そんなふうに私は考えています。
(これらは私オリジナルの考えでは無く、仏教や認識論などをつまみ食いした結果として、私が至った結論です)
俺は鬼になるぞ
心(関係性)を傷つけることで、今までの有り方から変わる。関係性を破壊して、再構築する、ということでしょうか。門司はプロ野球を「虚業だ」と言い放ち、勝手に想像した黛の行く末を「33歳で引退、スポーツメーカーに就職…」等々と述べます。そのうえで「この地獄の中で、アンタの今あるべき姿はなんだ?」と問います。
黛にしてみれば、門司にそこまで言われるのは、大きなお世話どころの話ではありません。門司は黛との関係性、鍼灸師と患者のラインを踏み越えています。
「目の前のバッターを倒す」というのは「小さい」、与えられた役割への対処に過ぎない。門司が問うているのは、「どうあるべきか」という大きくて根本的な問いです。
結果、黛は心を揺さぶられ、公園での平穏な日常を目にしつつもそれを捨て去ると決意し、「俺は鬼になる」と宣言するに至ります。
ここでMさんの話に戻ると、鍼灸ではわざと傷つけることにより、自然治癒力を利用して不調を治す。つまり、異常を正常に戻す。
一方で黛は、「人間らしくいる」ことをやめ、「鬼になる」。ある意味では、正常から異常になっています。
しかし鬼になるというのも、具体的にどういうことなのか説明はありません。「地獄」で生きてゆくために、平凡な幸せ・穏やかな生活を投げ打つ気概・心の有り方、と言えるでしょうか。
言ってしまえば、気の持ちようを変えただけ。そこは『精神論2015』というタイトルにも表れているのかなと思います。
念のため
念のためですが、私はここではこういう話なのだな、と受け止めているのみで、わざと人を傷つける行為・しごきや体罰などを肯定・容認するものではありません(門司も「もちろん悪い」と言ってますしね)。あえて傷つけることをせずとも、心の有り様や関係性を良くする手段はあるとも思っています。
長々と書き連ねてしまいましたが、この作品の一番好きな点は、鍼灸院から公園のシーンに至る”動”と”静”の切り替わりです。興味を持った方には、是非この漫画を手に取っていただければ幸いです。
漫画棚が新しくなりました
少し前ですが、漫画棚を新調していただきました!

この棚が……

こうなりました!
これからは、ジャンジャン漫画が置けますね!
……なんか既に空いてる場所があまり無いような……?
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